特集記事:夢を掴むアームの軌跡:ゲームセンターのクレーンゲーム歴史徹底解説
夢を掴むアームの軌跡:ゲームセンターのクレーンゲーム歴史徹底解説

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はじめに:誰もが夢見た「あと少し!」の瞬間
ゲームセンターでひときわ目を引くクレーンゲーム。誰もが一度は、あの景品に手が届きそうで届かない、心躍る「あと少し!」の瞬間に夢中になった経験があるのではないでしょうか。単なる景品獲得機としてだけでなく、クレーンゲームはその時代ごとの流行や、目覚ましい技術革新を映し出す鏡のような存在です。本稿では、そんなクレーンゲームがどのようにして誕生し、進化を遂げ、日本のゲームセンター文化に深く根付いていったのか、その夢を掴むアームの軌跡を徹底的に解説します。
クレーンゲーム前夜:ゲームセンター黎明期と初期の景品ゲーム
- ゲームセンターの誕生と黎明期
日本の人々の娯楽として、アミューズメント施設が新たな事業形態として注目を集めるようになったのは1931年、東京浅草の松屋百貨店に開業した「スポーツランド」が始まりとされています1。ここでは、子供向けの遊具だけでなく、様々なゲーム機が設置され、商業施設における娯楽の先駆けとなりました。その後、1970年代に入ると、日本全国でゲームセンターブームが巻き起こります。その火付け役となったのは、1978年に登場した「インベーダーゲーム」でした1。パックマンやスペースインベーダーといったタイトルが爆発的な人気を博し、ゲームセンターは若者を中心に多くの人々が集まる活気ある場所へと変貌を遂げました3。この初期のビデオゲームの成功が、後のクレーンゲームを含む様々なアーケードゲームの発展を支える基盤となったのです。人々の間でゲームセンターがエンターテイメントを楽しむ場所として認識されるようになったことが、クレーンゲームが受け入れられ、普及していくための土壌を育みました。 - 初期の景品ゲーム機
現在の洗練されたクレーンゲームが登場する以前から、ゲームセンターには様々な景品を獲得できるゲーム機が存在していました3。これらの初期の景品ゲーム機は、現代のものとは異なり、よりアナログなものが多かったようです3。例えば、レバーやボタンを操作して、お菓子や小さな玩具などを落とすタイプのゲームや、ルーレットやくじ引きの要素を取り入れたものが主流でした3。これらのゲームは、プレイヤーの技術介入の余地が少なく、運要素が強いものが多かったと言えるでしょう3。しかし、1970年の大阪万博では、古河パビリオンに「コンピュータ・ハンド・ゲーム」という大型のクレーンゲーム機が出展されており6、早くからクレーンゲームの技術に対する関心が高かったことが伺えます。これらの初期の景品ゲーム機の存在は、日本人が以前から物理的な報酬が得られるゲームに親しんでいたことを示しており、後に登場するクレーンゲームがスムーズに受け入れられるための下地となりました。 - 日本におけるクレーンゲームの萌芽
日本で最初のクレーンゲームは、意外にも1930年代に登場していました3。これらは手動でハンドルを操作するタイプで、主に駄菓子などが景品として提供されていました8。そして1965年には、タイトーが「クラウン602」という国産初のクレーンゲーム機を開発しました5。同年には、後のセガサミーグループとなるサミーの前身、「株式会社さとみ」もクレーンゲーム市場に参入しており3、1960年代には既に複数のメーカーによるクレーンゲーム市場が形成されていたことがわかります3。これらの初期の日本製クレーンゲームは、上から覗き込むような形状が多かったようです7。景品もお菓子だけでなく、タバコなども含まれていた時代もありました9。このように、アメリカからの輸入に先駆けて、日本国内でも独自にクレーンゲームの開発と市場が形成されていたことは、このゲーム形態に対する日本人の早期からの関心の高さを物語っています。
アメリカからの衝撃:クレーンゲームの誕生と日本への導入
- クレーンゲームの起源
現在のクレーンゲームの原型は、19世紀末から20世紀初頭のアメリカで生まれたと考えられています7。当時、パナマ運河の建設に使われた蒸気ショベルが、クレーンゲームのアイデアのヒントになったと言われています15。そして1926年、「エリーディガー」という手動式のクレーンゲームが特許を取得し、生産を開始しました5。これが、一般的にクレーンゲームの始祖と考えられています。初期のクレーンゲームは、小さなお菓子や雑貨などを景品とし、電気を使わない手動式であったため、お祭りや移動遊園地などでよく見られました5。その後、1932年には電気を動力とする「マイアミディガー」が特許を取得し、クレーンがより広範囲に動かせるようになりました15。このように、アメリカがクレーンゲーム技術の初期の発明と発展において重要な役割を果たしたことがわかります。 - 日本への導入と初期の人気
1980年代に入ると、アメリカで開発されたクレーンゲームが日本に輸入されるようになります3。特にぬいぐるみなどを景品としたクレーンゲームは、その斬新なゲーム性と魅力的な景品によって、たちまち日本のゲームセンターで人気を集めました3。初期の輸入されたクレーンゲームは、操作は比較的シンプルでしたが、アームの力が弱かったり、景品が滑りやすかったりして、獲得難易度は高めだったと言われています3。しかし、それにもかかわらず、子供から大人まで幅広い層がクレーンゲームに夢中になり、ゲームセンターの定番機種としての地位を確立していきました3。アメリカ製の、特にぬいぐるみを提供するクレーンゲームの導入は、それまで日本に存在した、よりシンプルな構造で主に菓子類を景品としていたクレーンゲームとは異なる、新しい魅力をもたらしました。
1980年代:UFOキャッチャーの登場とクレーンゲームブームの幕開け
- セガ「UFOキャッチャー」の衝撃
1985年、セガが初代「UFOキャッチャー」を発売したことは、日本のクレーンゲーム史における決定的な出来事でした3。目線の高さに景品が配置され、2本のアームで掴むという斬新なデザインは、それまでのクレーンゲームのイメージを一新しました3。その名前「UFOキャッチャー」は非常に覚えやすく、瞬く間に日本全国に広まり、他社のクレーンゲーム機を含めた総称として使われるほどになりました3。開発当初は、景品を鷲掴みにすることから「イーグルキャッチャー」という名称が検討されていましたが、最終的にその形状がUFOに似ていることから「UFOキャッチャー」と命名されたというエピソードも残っています3。当時の景品の上限価格が200円だったため、初期の景品にはカプセルトイなどがよく使われていました18。また、初代UFOキャッチャーの筐体がピンク色だったのは、女性や子供といったより幅広い層にアピールするためだったと言われています20。 - クレーンゲームブームの到来
UFOキャッチャーの登場は、1980年代後半にかけて日本全国でクレーンゲームブームを巻き起こしました2。それまでビデオゲームが中心だったゲームセンターにおいて、クレーンゲームは新たな収益源となり、多くのゲームセンターで複数のクレーンゲーム機が設置されるようになりました7。特にぬいぐるみが景品として人気を集め、クレーンゲームブームを牽引しました3。この時期は、従来のビデオゲームの人気がやや陰りを見せていた時期でもあり、クレーンゲームはそれに代わる新たなアーケードゲームとして注目を集めました5。高得点を競うビデオゲームとは異なる、実際に景品を獲得できるという魅力が、多くの人々を惹きつけたのです。 - 「UFOキャッチャー」シリーズの進化
セガはUFOキャッチャーの成功に満足することなく、次々と新しいモデルを開発しました。1987年には「UFOキャッチャーDX」、1991年には「ニューUFOキャッチャー」が登場しました7。これらの改良版では、景品のディスプレイが見やすくなるように高さが調整されたり、景品が取り出しやすいように出口が改良されたりしました19。特に「ニューUFOキャッチャー」では、当時人気だったソニック・ザ・ヘッジホッグのキャラクターが起用され、子供たちの間でさらに人気が高まりました19。このように、セガは常に市場のニーズに応え、技術革新を続けることで、UFOキャッチャーシリーズのブランド力を高め、クレーンゲーム市場におけるリーディングカンパニーとしての地位を確立していきました。
1990年代:多様化と技術革新の時代
- 多様なゲーム機と景品の登場
1990年代に入ると、クレーンゲームは更なる進化を遂げます3。ゲーム機のデザインや機能が多様化し、様々な種類の景品が登場しました3。特に、アニメやゲームのキャラクターグッズは、クレーンゲームの景品として非常に人気が高く、多くのファンがゲームセンターに足を運びました3。技術面においても、アームのパワー調整機能や、複数回操作できるタイプのゲーム機が登場するなど、より戦略的に景品獲得を目指せるようになりました3。また、景品を直接掴むだけでなく、アームで押したり、引っ掛けたりして落とすタイプのゲーム機も登場し、クレーンゲームのバリエーションは大きく広がりました3。さらに、アイスクリームを景品として提供できる冷蔵機能付きのクレーンゲーム機も登場するなど、景品の幅は広がり続けました9。 - クレーンゲーム専門店の隆盛
1990年代には、クレーンゲームの絶大な人気を背景に、クレーンゲーム専門店が各地に登場するようになりました3。これらの専門店は、一般的なゲームセンターよりも多くの種類のクレーンゲーム機を設置し、様々なジャンルの景品を取り揃えることで、クレーンゲームファンにとって魅力的な場所となりました3。これは、クレーンゲームが単なるゲームセンターの一角を占めるだけでなく、独立したエンターテイメントとしての地位を確立したことを示しています。 - クレーンゲーム大会の開催
1990年代には、クレーンゲームの技術や戦略が注目されるようになり、全国規模のクレーンゲーム大会が開催されるようになりました9。アミューズメント施設運営会社などが主催する「全日本クレーンゲーム選手権」はその代表的な例であり9、これらの大会は、クレーンゲームが単なる運試しではなく、熟練した技術や戦略が求められるゲームであることを示し、その魅力をさらに広める役割を果たしました。
2000年代:オンライン化とエンターテイメント性の追求
- オンラインクレーンゲームの登場
2000年代に入ると、インターネットの普及とともに、クレーンゲームにもオンラインの要素が取り入れられるようになります3。自宅にいながら、インターネットを通じて本物のクレーンゲーム機を遠隔操作できるオンラインクレーンゲームが登場し、新たなエンターテイメントの形を提供しました3。これにより、物理的なゲームセンターに行けない人や、遠隔地のゲームセンターにしかない景品を獲得したい人など、より多くの人々がクレーンゲームを楽しめるようになりました3。2010年頃には、「いつでもARキャッチャー」(後に「トレバ」としてリニューアル)のようなオンラインクレーンゲームの先駆けとなるサービスが登場しました26。その後、2018年にはナムコも「とるモ」といったオンラインクレーンゲーム市場に参入するなど27、オンラインクレーンゲームは着実にその規模を拡大していきました。 - エンターテイメント性の進化
2000年代には、クレーンゲームは単なる景品獲得機としてだけでなく、エンターテイメントとしての要素がより強く求められるようになります3。景品の陳列方法が工夫されたり、獲得までの過程を楽しめるような様々なギミックが搭載されたゲーム機が登場しました3。例えば、景品が積み上げられたタワーを崩したり、シーソーのような台に乗った景品を落としたりするなど、ユニークなアイデアを取り入れたゲーム機が人気を集めました3。また、音楽や照明などの演出も重要視されるようになり、クレーンゲームコーナーは、より賑やかで楽しい空間へと進化していきました3。
2010年代:プライズゲームの進化と多様な景品
- 「プライズゲーム」としての深化
2010年代に入ると、クレーンゲームは「プライズゲーム」と呼ばれることが増え、これは、従来のクレーンゲームの枠を超えた、より広範な景品獲得ゲームを指す言葉として使われるようになりました3。 - 景品の多様化と高品質化
プライズゲームとして進化する中で、景品のラインナップはさらに多様化しました3。ぬいぐるみやフィギュアといった定番の景品に加え、家電製品、食品、アパレル雑貨、さらには日用品まで、幅広いジャンルの商品が景品として登場するようになりました3。また、景品の品質も向上し、市販品と遜色ないレベルのものも珍しくなくなりました3。特に、人気アニメやゲームのキャラクターフィギュアは、そのクオリティの高さと希少性から、コレクターズアイテムとしての価値も高まり、多くのファンを魅了しました3。この時期には、「推し活」と呼ばれる、自分の好きなキャラクターを応援する活動が活発になり、その一環として、プライズゲームで推しのキャラクターグッズを獲得することが人気を集めました29。 - ゲーム機の技術進化
ゲーム機自体も、より精密な操作が可能になったり、難易度調整が細かくできるようになったりと、技術的な進化を続けています3。これにより、プレイヤーはより自分のスキルを活かして景品獲得に挑戦できるようになり、単なる運試しではない、戦略的なゲームとしての側面が強調されるようになりました。 - SNSを通じたコミュニケーション
2010年代は、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)が広く普及した時代でもあり、プライズゲームにおいてもその影響が見られました3。プレイヤーは、SNSを通じて獲得した景品を共有したり、他のプレイヤーと攻略情報を交換したりするようになり、プライズゲームは、単なるゲームとしてだけでなく、コミュニケーションツールとしての側面も持つようになりました3。
そして現在:クレーンゲームは新たな時代へ
- ゲームセンターの中核的存在
現在、クレーンゲームは、日本のゲームセンターにおいて依然として非常に重要な位置を占めており、その人気は衰えることを知りません3。日本アミューズメント産業協会の調査によると、ゲームセンターの売上の半分以上がクレーンゲームによるものとなっており5、その経済的な重要性も依然として高いことがわかります。 - オンラインクレーンゲームの更なる進化
スマートフォンの普及に伴い、オンラインクレーンゲームはさらに進化を続けています3。AR(拡張現実)技術を活用した新しいタイプのクレーンゲームも登場するなど、オンラインならではの新しい体験が提供され始めています3。現在では、数多くのオンラインクレーンゲームプラットフォームが存在し、それぞれが特色のある景品やゲームシステムを提供しています28。 - 社会的なテーマとの連携
近年では、地域活性化やSDGs(持続可能な開発目標)といった社会的なテーマと連携した景品が登場するなど、クレーンゲームは、エンターテイメントの枠を超えた新たな可能性を秘めています3。 - 地域による人気の差
クレーンゲームは日本全国で人気がありますが、特に東京都を含む関東地方は、ゲームセンターの数が多く、大規模なクレーンゲーム専門店も多く見られる地域として知られています34。これは、関東地方の人口密度が高く、エンターテイメント施設が集積していることが要因として考えられます。しかし、設置台数で全国トップクラスのゲームセンターは、静岡県のラウンドワン富士店や新潟県のAPINA新陸風北館など、関東以外の地域にも存在しており35、クレーンゲームの人気は全国的なものであると言えるでしょう。
日本のクレーンゲームを支える法規制と景品
- 風俗営業法による規制
日本のゲームセンターでクレーンゲームを運営するためには、風俗営業法(風営法)による規制を受ける必要があります4。風営法では、原則として遊技の結果に応じて賞品を提供することは禁止されていますが、クレーンゲームについては、一定の条件下で例外的に認められています40。警察庁は、景品の射幸性を抑えるため、景品の小売価格について上限を定めており39、現在ではおおむね1000円以下のものが提供されることが一般的です39。この上限額は、2022年3月に従来の800円から引き上げられました40。 - 景品に関する自主規制
法律による規制に加えて、日本アミューズメント産業協会(JAIA)は、アミューズメント施設における景品提供について自主的なガイドラインを設けています39。このガイドラインは、風営法の内容を踏まえつつ、より詳細な基準を定めており、例えば、酒類やたばこ類、わいせつな物品、暴力的な表現を含む物品などを景品とすることを自主的に規制しています41。 - 景品提供の方法に関する規制
景品の提供方法についても規制があり、例えば、ゲームで獲得したチケットなどを別の景品と交換するいわゆる「二次交換」は原則として禁止されています42。また、プレイヤーが獲得した景品は、実際にゲーム機から取り出したものでなければならず、高額な景品を展示して客を誘引する行為も禁止されています43。
クレーンゲームは日本の文化:地域差と独自の魅力
- 日本独自のポップカルチャー
クレーンゲームは、今や日本独自のポップカルチャーとして世界的に認知されています6。老若男女問わず多くの人々に親しまれ、ゲームセンターだけでなく、ショッピングモールや駅など、様々な場所で見かけることができます6。単に景品を獲得するだけでなく、その過程で友人やカップル、家族などがコミュニケーションを取り、成功を分かち合うといった、社交的な側面も持ち合わせています45。また、景品の種類も豊富で、定番のぬいぐるみから、アニメやゲームの限定グッズ、食品、雑貨など多岐にわたり、その多様性が人々の心を惹きつけています45。近年では、日本のクレーンゲームやその景品のクオリティの高さが海外でも評価され、日本製のクレーンゲーム機が海外に進出する例も増えています25。 - 地域による傾向の違い
クレーンゲームは全国的に人気がありますが、地域によっていくつかの傾向が見られます。例えば、東京都を含む関東地方は、ゲームセンターの数が非常に多く、大規模なクレーンゲーム専門店も多数存在します34。これは、関東地方が人口密度が高く、エンターテイメント施設が集積しているためと考えられます。しかし、クレーンゲーム機の設置台数で全国上位に入るゲームセンターは、静岡県や新潟県など、関東以外の地域にも存在しており35、地域によって特色はあるものの、クレーンゲームは日本全国で広く愛されているエンターテイメントと言えるでしょう。
まとめ:夢を掴むアームはこれからも進化し続ける
クレーンゲームは、その誕生から半世紀以上の時を経て、日本のゲームセンターに欠かせない存在となりました。シンプルな操作性の中に秘められた奥深さ、そして魅力的な景品の数々は、多くの人々の心を掴んで離しません。技術革新とともに進化を続け、オンラインの領域にも進出したクレーンゲームは、これからも私たちの日常に小さな夢と興奮を与え続けてくれるでしょう。さあ、あなたもゲームセンターで、夢を掴むアームの軌跡を体験してみませんか?